信仰とは
篤き信心
信仰を古くは〈しんごう〉とも読み”純粋無垢な心”で神や仏を信頼し崇拝する宗教用語のこと。
特に仏教では信仰というより「信心」〈しんじん〉との表現の方が伝統的に使われている。
仏教徒にとって「三宝」”仏.法.僧”への帰依が必須であり、三宝に対する信頼があればこそ帰依の心が生ずる。
またその対象は、今生であるとか特定の時や場所に制約されておらず、過去から未来永劫に向けて如何なる状況下にあろうとも信頼できるものであって、その故に確立されている。
「信」は疑惑・不信を除き”覚り”への揺るぎない基盤であると考える。
心が清まり澄むことで、心のよりどころとしての理解が進んで確立される信頼であって、そこにはもはや疑惑がない。
山伏と信仰
山伏は〈山臥〉とも書き、山に伏して修行することで”験力”〈けんりき〉を修めることから”修験者”ともいう。
〈伏〉の字は、人と犬偏からなるが故に「煩悩即菩提」を示すとされた。
修験道は日本古来の”山人”の信仰がもととなり、山人たちが動物や樹木の主を山の神として崇めていた。
また、水田.稲作.農耕をもたらす神として崇め、山麓に祠を設けて祭りを行った。
やがて仏教や道教の影響を受けた宗教者が山の導きで山中に入り”陀羅尼や経文”を唱えて修行した。
修験道では山岳を「金剛界/胎蔵界」の曼陀羅として、”権現”など霊山を神格化して崇めた。
そして自らが山林修行することにより、自然との一体化を図り自分自身も自然の一部であることを認識し、自然が信仰の対象なれば自分自身も信仰の対象となる。
本来、信仰の対象は遥か彼方に求めるものではなく身の内にあるものとして、詰まり自分自身をも拝むのである。
山を拝み、太陽を拝み、月を拝み、海川.草木を拝み、それら自然から生かされている自分を拝むことで、信仰の対象とはいかに身の回りにあるものかということを覚るのである。